広島県が誇るジャムメーカー「アヲハタ」が、日本の「低糖度ジャム」の元祖だと分かり、竹原市にある見学・体験施設「アヲハタJAM DECK」にも行ってきました!
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さて、その「低糖度ジャムの元祖」ですが、そこには、日本のジャム文化そのものの歴史が重なっています。取材を進める中で「そもそも、日本で最初にジャムはいつ、どうやって作られ始めたのだろう」という疑問が湧いてきました。
ジャムって、最初から瓶に入ってるものだと思ってました。実は缶詰だったなんて・・・!ちょっと意外ですよね。

実は、日本におけるジャムの歴史は、はるか16世紀後半にまでさかのぼります。
宣教師がもたらした、西洋の甘い保存食
日本にジャムが伝わったのは、南蛮貿易が盛んだった16世紀後半。宣教師によって、西洋文化の一つとして持ち込まれたと考えられています。南蛮趣味を好んだ織田信長も、口にしたのではないかと想像されていますが、確かな記録は残っていません。
当時のジャムは、砂糖も果物も貴重な時代の「舶来の珍味」。ごく一部の上層階級が触れる特別な食品で、庶民の食卓とは無縁の存在でした。
明治政府が試作した、日本初の国産ジャム
それから約300年後。明治維新を経て、日本が近代国家を目指す中で、ジャムは再び姿を現します。
明治10年(1877年)、東京・新宿にあった勧農局において、日本初の国産イチゴジャムが試作・試売されました。農業技術や食品加工技術を西洋から導入しようとする、国の近代化政策の一環でした。
友美国が“ジャムを作ってみよう”と考えたっていうのが、なんだか面白いですよね。ジャムも近代化の象徴だったのかも
ただし、これはあくまで試験的な取り組み。本格的なジャムづくりは、次の段階へと進みます。
地域農業を救うために生まれた、民間ジャム
明治14年(1881年)、長野県北佐久郡三岡村(現在の小諸市)で、日本初の民間によるイチゴジャム製造が始まります。手がけたのは、塩川伊一郎とその息子・勝太。地域農業を立て直したいという強い思いが、その原動力でした。
冷害などで苦しむ農家を救うために始めた果樹栽培。しかし、今度は収穫物の流通や余剰が課題になります。そこで選ばれたのが「加工」、そして「保存」でした。



ここで瓶じゃなくて、缶詰を選んだっていうのが、すごく現実的ですよね
当時「缶詰」が選ばれた理由は、はっきりしています。
- 明治期の日本では
- ガラス瓶は高価
- 密閉技術・殺菌技術が未成熟
- 輸送中の破損リスクが高い
- 一方、缶詰は
- 軍需・輸出用としてすでに技術が確立
- 長期保存・遠距離輸送が可能
- 地方から都市へ運ぶ加工品に適していた
つまり**「缶詰=当時の最先端インフラ」**だったわけです。
当時の日本では、ガラス瓶はまだ高価で割れやすく、密閉や殺菌の技術も十分とは言えませんでした。一方、缶詰は軍需や輸出用としてすでに実用化が進み、保存性と輸送性に優れていました。
塩川伊一郎が選んだ「缶」という器は、流行でも妥協でもなく、果実を無駄にせず、確実に人のもとへ届けるための、最も現実的な選択だったのです。



甘いジャムを作りたかったんじゃなくて、果物と農家の未来を残したかったんだろうな、って思いました
当時の技術や輸送事情を考え、保存性と安定供給を重視した結果、ジャムは缶詰として作られました。村の農家や子どもたちも関わり、まさに“村ぐるみ”で支えられたジャムづくりだったといいます。
天皇献上が、ジャムを全国へ広げた
塩川のイチゴジャムは各地の博覧会で評価を高め、明治43年(1910年)4月20日、ついに明治天皇へ献上されます。この出来事をきっかけに、ジャムは高品質な国産食品として全国に知られる存在となりました。
この日付が、現在「ジャムの日」とされていることからも、塩川伊一郎の功績が日本のジャム産業に与えた影響の大きさがうかがえます。
文学とともに、少しずつ身近な存在へ
明治後期には、夏目漱石の「吾輩は猫である」の中にジャムが登場します。西洋文化の味として認識され始めた一方で、まだ高級品であったことも伝わってきます。
昭和に入ると、各地でジャム製造が本格化。その流れの中で、昭和10年頃、広島でも旗道園――後のアヲハタが、イチゴジャムやマーマレードの製造を始めました。日本人の味覚に合う、甘みを感じるジャムが、ここで育まれていきます。



缶詰から始まった日本のジャムが、広島で、そしてアヲハタで、今につながっていると思うと、ちょっと感慨深いですね
戦後、学校給食のパン食を通じて、ジャムは一気に“日常の食品”へ。こうして、日本のジャムは、舶来の珍味から、家庭の食卓へと、長い時間をかけて根付いていったのです。







